共に生きる社会へ。
わたしたちの挑戦は
永遠に続きます。
「六方学園」は昭和6年、
児童4名職員5名の小さな施設として
スタートしました。
以来90年以上にわたり、
知的障害のある方々が豊かな生活を送れるよう、
社会的な自立を支援しています。
「六方学園」は昭和6年、児童4名職員5名の小さな施設としてスタートしました。
以来90年以上にわたり、知的障害のある方々が豊かな生活を送れるよう、社会的な自立を支援しています。
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私たちの思い
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機関車の絵
名前の由来ぶれなかった「六方」にかけた信念学園だより「六方」547号より
六方学園の「六方」とは、二千五百年の時を越えて伝えられているブッダが若き青年シンガーラに出会い教えた「六方礼経」に源がある。東南西北天地の六つの方角には人としての心の持ち方と人間関係のあり方があると説かれ、この世の生命すべては平等であり大いなる慈愛によって生かされていると説かれています。
戦後、連合軍総司令部の広島地方を管轄していた進駐軍政の福祉部長であったドロシー.デッソー女史などから、視察時に学園名に強い干渉があった。「六方学園」をアメリカの児童施設のように「希望の家」や「白鳥の家」など子供らしい園名に変えるようにと再三の申し入れがあった。
当時の占領軍の指示などは絶対的な強制力があったが、創設者田中正雄初代園長は「六方」という二文字に込められた人道的な深い慈悲の心情があることを説き信念を押しとおした。さぞかし勇気がいったことであろう。その後、デッソー女史は軍籍を離れ、日本の社会事業に従事する人材育成に尽力され京都の住まいで亡くなられたと聞く。
その時代に強い要望に応じ「六方学園」を別の園名に改めていたら、創立の精神も薄れ、今とは違った学園史を刻んだことであろう。園名一つにも、学園史を語る生き証人であり、まさに「名は体を表す」出来事であった。
私の思い~フォルクスワーゲンの哲学に共鳴して~
ありがとう、フォルクスワーゲン。
私の愛車は、1961(昭和36)年式のフォルクスワーゲン・ビートル(タイプ1)。
1966年この車に出会い、2022年現在まで乗り続けて56年目、走行距離は670,000kmになるが、いまだに見てソワソワ、乗ってワクワクさせてくれる。なぜなら、この車に乗ることで設計者の思想が実感でき、私に多くの示唆を与えてくれるからだ。
この車の生みの親であり、天才的な才能を発揮したDr.フェルテナント・ポルシェ博士による基本理念は、以下となっている。
- ●国民の安全安心を基本とし、型を変える必要なし。モデルチェンジもしない。
- ●内部は乗る人に合わせて変化ができる仕組に。
- ●エンジンは空冷(トルクは2,000cc級)、燃料は大地のめぐみのガソリンを使用。
- ●メンテナンスも一つの部品は全車種共通で、世界のどの地域でも調達が可能。
実際に車を走らせると、その理念や魅力を「五感」で楽しむことができる。たとえば、心地よい存在感あるエンジン音。悪路を走れば走るほど調子がでてくる不思議な魅力。クーラーはないが三角窓を開けば、走っている土地の匂い、生活の営みが吹こんでくる。適度に暗く、丸みと狭さを感じさせる母親の胎内のような室内は、気持ちを落ち着かせ、何だかホッとする。そんな人間味のある車。また、2ドアなのは、車の強度と安全性のため。バッテリーは室内のシート内、エンジンは後部、ガソリンタンクは運転席の前にあり、出火やガソリン漏れに気付く合理的な仕組となっている。さらに、タイヤは回転と距離の効率を考えひと回り大きなサイズに。鉄盤は厚く、塗装も3層で屋根の役割をこなす。そして外側はガードの役割を果す構造である。また、メンテナンスに関しては前述の通り、一つの部品は全車種共通で今もって調達ができる信頼性を誇り、安心して乗り続けることが可能なのも共感できるポイントである。
最後に。
私のフォルクスワーゲンが今も健在で調子よく動き、長距離でも快適に走れるのは、1957年にヤナセに入社され退職まで見守り、点検や整備をしてくださった「ヤナセ・サービス・アドバイザー」の柄本健造さんのお陰である。現在も時折相談にのっていただいており、心強い。以前柄本さんから、「1977年に西ドイツにあったワーゲン社の工場見学の際に、1953年式のビートルが今も日本で走っていると話したら、ドイツではもう走っていないと大変感激され、記念品をもらった」というエピソードを聞いたことがある。柄本さん本人には「古い車」という気持ちがなく、実際「街でよく『譲ってくれませんか』と声をかけられるのも古いタイプの車ほど多い」と付け加えられた。今回のコメントの他に多数の貴重な資料を添付してくださり感謝している。
学園長 田中久喜
機関車を見つめて沼本満成さん
ホームページを走り抜けているのは、沼本満成(ぬもとみつはる)さんの作品 「急行安芸」C5310形蒸気機関車の勇姿です。
昭和16年竹原市生まれ。昭和29年8月入園、昭和35年退園。図画、貼り絵、粘土工作に秀でていた沼本さんは、当時の学園(広島市古江町)のそばを通る山陽本線の列車を熱心に観察し、精密で力強い蒸気機関車の絵を多数描きました。
作品は百貨店や鉄道85周年展覧会などに出展され、東の「山下清さん」に対して、西の「沼本満成さん」と呼ばれることもありました。
学園のホームページに動画をのせ
学園だより「六方」569号より
C51蒸気機関車は、高速運転を目指し急行向けに開発されたもの。沼本満成さんがクレヨンで描いた大作は、機関車に客車に寝台車、食堂車、貨物に郵便車の十二両編成の姿。東京行きの「安芸号」は、夜行列車でホテル代わりになっていた。当時の学園は山陽本線沿いにあって、黒煙を吐き蒸気を吹き力強い音で走りぬけていた。中でも重量のある貨物列車は、家を揺るがすほどの迫力。沼本さんはこの魅力にとりつかれ、遠くから近づく音をキャッチし、すばやく線路へと飛び出す。走ってくる列車を全身全霊で見届け観察し続ける毎日が。この安芸号を利用した人にとっては多くのドラマがあったであろう。午後三時頃に広島を出て、瀬戸内をめぐる呉線から三原で一息。機関車への水や石炭の補給の間は、車外に出て名物の掛けウドンや背伸びで体をほぐす楽しみ。やがて真夜中に大阪から名古屋を走りぬけ、夜が次第に明るむ沼津あたりからの停車では急ぎ顔を洗う人びとの姿が。トンネル内で黒煙が吹き込み顔などはススで汚れながら約十七時間をかけ東京駅に着く。駅弁も楽しみの旅が終わる。鉄道は国力を引っぱる存在感があった。その迫力を沼本さんは、全車両を画用紙につなぎ原寸で十二m程の作品を描き残している。学園を退所し、鉄道に関した仕事をしたと聞く。七十七歳になり今どうしているのか風の便りもない。せめて沼本満成さんを忍び、学園のホームページに動画として全景を再現しようと特別な技術を得て走り続けている。